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ジャーナリスト宣言という欺瞞
最近言われはじめた話でもないのですが、
過剰な報道それ自体が、
社会不安やつぎの犯罪を生んでいる面はあると思います。
ジャーナリズムは、
それでも事実だからという理由だけで、
書こうとするのかもしれませんが、
報道が毒になっているのは、
書き手に知性や教養はあっても、
品性が欠けていることのほうが多いからではないでしょうか。
最近、朝日新聞が「ジャーナリスト宣言」という、
自社宣伝のキャンペーンを展開していますが、
これに果てなき居心地の悪さを感じてしまいます。
それは、あの村上世彰氏が逮捕前の会見で言った、
「プロ中のプロ」という発言と限りなくダブるのです。
本当のプロは自分のことをプロ中のプロとは言いません。
それは、他者が評して言うことなのです。
朝日新聞のコピーは、
「私たちは信じている、コトバの力を」と述べていますが、
それは、自分たちが書くことで人の心を動かせる、
自分たちが書くことに耳を貸すことが正しい、
そんな傲慢な思想が根底にあるように聞こえます。
そしてまた、ジャーナリストたるべきであるというのは、
報道する側の人間がうちに秘めるもので、
結果として受け手の我々が評するものです。
その点を看板にするということは、
品のないことだと言わざるをえません。
今回は、たまたま朝日新聞の広告が気になっただけで、
この大新聞社を嫌っているということではありません。
私たちがなにかについて考えるとき、
そこにはマスコミからの情報というものが、
大きなウエイトを占めています。
ですが、それを送り出すほうも生身のふつうの人間なのです。
そんな、ふつうの人間が、
多くの人心を動かせると思って書いた情報。
受け手が、そこを意識しない限り、
知らないうちに何かに加担させられることがあるでしょう。
そんなことを危惧しているのです。
絶対的な正義
根や葉から化学物質をだして周りの環境に働きかけ、
場合によっては周囲の植物を駆逐します。
人もこれと同じことを言論でやることがあるのでしょう。
それを得手とするものだけにそれをさせておくと、
種としては強度が弱くなる。
そんな風に考えています。
それはさておき情報というものは、
誰かに意図的に握らされる場合があるようです。
発信者の側ですでに操られている場合が、
怖いのです。
絶対的な正義は、案外身近なもので、
嫌なものを嫌だと言えることなのかもしれません。
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社会の、世界のデキゴトというのは、自分のそれを
はるか越えることが多くて、どうしても他者の意見を
参考にしなければならないことが多いですよね。
そういったときに「自分は絶対的に正しい」という意見を聞かされると
「そうなんだ」と信じ込んでしまいがち。
そこで違う考えなんかを持っていたりすると
「もしかして自分が間違ってる?」という疑念にかられてしまったり。
テレビでは新聞各社の意見比較なんかをしてくれるので
その辺が面白かったりするのですが、そういう場がなければ
自分が得た情報のみが唯一無二になりそうですね。
あ、あと 最近気付いたのですが、
記事に記者の名前が入ってるでしょう。
あれはチェックしてたりするとなかなか面白いです。
「新聞社」という大きなものから「生身のふつうの人間」っぽくって。
書く側も壁がない分、責任が大きくなりそうだし。
絶対的な自信は必要かと思いますが、
=絶対的正義 と錯覚してほしくないですよね。