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報道の公共性
2005 - 03/28 [Mon] - 21:15
たとえば、
『ジーコジャパンが2−1でイランに敗退しました。』というのは、
客観的で、公正な、報道になってるんだけど、
『ジーコジャパンが残念ながら2−1でイランに敗退しました。』だと、
極論すれば、もうすでに報道じゃないんだよね。
『残念』なのは、いったい誰の主観よ?ってコト。
いえ、わたしだって今回の敗戦はとても残念なんですけど…(笑)
「残念ながら」というのが伝え手の主観なら、
それは、伝え手のたんなる感想でしかない。
それは、そこでもう公正ではなくなってしまう。
「残念ながら』が、
多くの人がそう思う一般論だろうという意味で付随してるなら、
それは推論であって事実ではない。
サッカーに否定的だったり興味のない人には、残念な訳じゃないから。
むしろ、残念がらない人への言葉の圧力になる。
これは、どんなメディアでも起こってしまうことで、
報道が報道たりえるのは、本当は難しいことなんだけど、
そのあたりが曖昧なままでは、『公共性』なんて言葉も意味をもたない。
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